2016年3月9日水曜日

美女と野獣 2nd修正

 先日アップした美女と野獣のスコアですが、案の定というか2ndのみ少々単純な間違いがありましたので譜面修正いたしました。1st、3rdに変更はありません。

総譜
パート譜(2nd)

 変更点は以下の通り。

・19小節目:レのナチュラルをオクターブ高く変更
・32小節目:4拍目のシの音が抜けていたので追加
・42小節目:最後のミをオクターブ高く変更
・67小節目:最初のミの音を削除
・67~70小節目:オクターブ高く変更
・74小節目:オクターブ高く変更

 また、本番Hまで弾いて終わりにしようというお話になるみたいですが、その場合最後の75小節目、3rdは5弦解放のラの音で終わってください。6弦5フレットでもいいです(同じ)。

 直前の修正で申し訳ないですがよろしくです。

2016年2月28日日曜日

美女と野獣

 シノさんの結婚式用『美女と野獣』の譜面、完成いたしました。合奏参加者の皆さまはどうぞご確認ください。以下のファイルに総譜、パート譜、参考の音源が入っています。

譜面・音源データ

 元の譜面は金管五重奏で、そのままのキーだとフラットだらけでギターだと弾きづらいことこの上ないので半音下げて調整しました。E→G→Aと2回転調するので、譜読みの際は気を付けてください。1stは重音の箇所がありますが、そのまま弾いてもいいですし2人で上と下分けて弾いてもいいと思います。そこはおまかせします。

 で、そう極端に難しくはないですが言うほど簡単でもありません。不可解な変拍子が出てきたりするので、ちょっと合わせづらいところがあるかもです。練習機会がほとんど取れないか、少なくとも自分はぶっつけ本番になるので、丁寧に音さらっておいた方がいいと思います。

 一応以下に総譜のリンクも置いておきます。スマホからならこちらから譜面を確認できると思います。

総譜

 ちょっと急いでやったのでもしあやしげなところや不明なところあればご指摘を。

2016年2月16日火曜日

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

 今更ながら、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』に挑戦してみました。古典の名作中の名作と言われてはいるものの、何か敷居が高い気がしてずっとこの作品を、ドストエフスキーを、遠ざけてここまできていたのです。何故今読む気になったかというと、正月にたまたま目についてkindle版を買って読んでいた『ゲンロン1 現代日本の批評』にこの作品の新訳を出した亀山郁夫の対談が収録されており、テロと文学、そしてこの『カラマーゾフの兄弟』との関係など語られていて興味を持ったのがきっかけです。探してみるとKindle版もあるようだし、それならまぁ読んでみるかということで早速注文してみました。購入したのもはもちろん亀山郁夫訳です。

 で、読み始めたのはいいけど正直第1巻の序盤はなかなか読書が進まない。フョードル、アリョーシャ、ドミートリー、イワンといったカラマーゾフ家の人物の生い立ちやら何やらが描かれるのだけど、これを読んでいくのがなかなかの苦行。この生い立ちを読むことがこの後の小説の展開にどの程度関わってくるのかまったく読めないまま、あれが当時のロシア風なのかそれともドストエフスキーの芸風なのか、とにかく冗長な長台詞をひたすら読まされる感じ。多分『指輪物語』を読み切ってなかったらこの段階で挫折してたんじゃないでしょうか。ずっと心の中で「『指輪物語』に至っては1巻まるまる旅立ちの準備で全然面白くなかったじゃないか。でもその後は一気に面白くなった。この作品もそうに違いない。きっとそうに違いない」と何度も繰り返して立ち向かっていました。ですがこの『カラマーゾフの兄弟』は『指輪物語』ほど凶悪ではなく、ちゃんと第1巻の3分の2を読み進める頃にはもう面白くなってきます。そこからは読書ペースも一気に上がっていきました。

 見てみると第1巻を注文したのが1月5日。第2巻の注文が1月24日。第3巻が1月30日。第4巻が2月1日。そして最終巻が2月4日注文で、読み終わったのが2月10日。第1巻を読むのに時間がかかった割には、その続きは一気に読み進めているのが顕著にわかります。また第3巻~第5巻の本編が終わる頃合いまでは幸か不幸かインフルエンザで寝込んでいたので、尚更読書ペースが上がりました。で、第5巻は本編はすぐ読み終わったものの、その後の亀山氏の解説はのんびり読んでたので少し時間がかかったと。第2巻以降はもうほとんど一気です。こんなに面白いとは思わなかった。この巨大さにしてこの緻密さ、生々しい人間の姿、普遍的な哲学、凄まじい。

 カラマーゾフの登場人物達は、時に高潔で、時に愚かで、一貫してないことも多く、でもそれゆえに「ああ、こういう人っているなぁ」と思わせるのです。今お付き合いさせてもらっている農家の方、特にビジネスという「場」に必ずしもはまっていない古い世代の彼らは、時に人間を剥き出しに振る舞うこともあるので、それこそ突然この作品の登場人物のような長舌な語りを始める方もいたり、感情のままに周りを振り回すような場合も時にはあったりします。新潟に戻ってきたばかりの頃、社会人としてはビジネスシーンという様式美の世界での人付き合いが主だった自分はその生々しさに戸惑い、これが農家独特の文化なのかと軽いショックを受けたものでした。でも、それは別に農家に限ったことでなく、ビジネスシーンという様式美をなくしてしまった時に見えてくる、生の人間なんだなということに次第に気付いてきました。

 この小説に出てくる人物たちは、そういった生の人間が凄く剥き出しの形で描かれるのです。フョードルの恐ろしいほどの道化っぷり。自分の欲求に、愛するものに忠実で、他人からは理解しにくいこだわりや誇りを持つドミートリー。無神論者で自説を滔々と語り、非常に理知的・理性的であるがゆえに自分の影に隠れた欲望に苛まれることになるイワン。卑屈な下男かと思いきや、終盤で思いの外狡猾で理知的に狂言回しの役を演じるスメルジャコフ。アリョーシャは、この小説では案外個性が薄い博愛の人ですが、ドストエフスキーの死によって叶わなくなったこの小説の続編ではもっと強烈な個性を見せるはずだったんでしょう、きっと。個性的な女性陣や検事・弁護士に至るまで、それぞれどぎついくらいの個性を、人間臭さをもった登場人物たち。どこかのレビューで「大勢の人間ドラマの大河」という言い回しを見ましたが、まさにそのような感じです。親殺しというテーマと、それに続く犯人探しという大きなストーリーの中に、登場人物それぞれの生々しい人間ドラマがぎちぎちに詰め込まれ、それが大河となりうねっているいる。そして言い回しこそ多少時代がかってはいるとはいえ、そこで描かれる人間の振る舞いや哲学的・神学的な問いかけ、巨大な物語のうねりはまったく古くさくないのです。シェイクスピアを読んだ時にも感じる、時代を超えた普遍的な哲学であり、人間の姿。これは確かに古典として残る凄みのある小説だと感嘆しました。

 第2部でイワンが語る大審問官。宗教は果たして人を救うのか?天上のパンか地上のパンか?という神学的・哲学的な問いの深さに重さ。第3部でいよいよフョードル殺害が起きる時点におけるドミートリーの怒りや失望、混乱の生々しさ。そしてそこから乱痴気騒ぎの中でそれらが急速に希望や歓喜へと変わっていく過程。そして次の瞬間にはそこから突き落とされるジェットコースターのような展開。どれ一つ取っても非凡な問いであり、描写であり、迫力なのです。

 特に圧巻だった第4部。イワンの内面の葛藤とスメルジャコフとのやり取り、それにより軋み、崩れていく精神の描写が凄み。崩れていく理性の描写としては芥川龍之介の『歯車』も読みながらゾクゾクした覚えがありますが、こちらもまた読むうちに崩れゆく理性の渦に巻き込まれ、次第に目眩がしてくる、まるで文章の中に吸い込まれていくかのような迫力。この辺りはもう文字から目をそらすこともできませんでした。そしてその崩壊した心の中にのみ残された真実はついに裁判では照らし出されることはなく、事実から「推察される真実」は見方によって様々に色を変え、心象を変え、裁判は進んでいきます。そう、やはり芥川龍之介の『藪の中』のように、真実は断片の切り方によっていくらでも姿を変えるのです。そして結局、真実は最後まですべての姿を見せてはくれないまま裁判の幕が閉じる、その無情さを感じする隙すらないようなあっけなさ。

 正直この作品がこんなに面白いとは、こんなに力があるとは、思ってもみませんでした。エピローグで感じるまっ白なカタルシスは、そこまでの様々な登場人物の、長く生々しいドラマを、登場人物は登場人物として、そして読者は読者としても、乗り越えてきたがゆえ。この人類の原罪に挑むかのような壮大なテーマに比して意外なほど爽やかで美しいラストは、読後に清々しい達成感を残してくれました。

 親殺しという神話からつらなるテーマを中心に、様々な人間模様や哲学、事実が真実を表すとは限らないというテーゼ、そして唐突で不条理とも思える結末。長さなど気にならず、最後まで一気に読ませてくれます。語る人物それぞれに、生々しい「人間」を感じるのです。そう、この言葉を何度も使いました。「生々しい」。この『カラマーゾフの兄弟』に出てくる登場人物たちは、実に生々しいのです。最近の物語の、ちょっと近くにはいなさそうな「キャラクター」ではなく、明日も会いそうな、今も隣にいそうな、等身大でカッコよくも悪くもある、欠点だって普通に持った、ありふれた人間の人生が紡がれて大河となっている小説なのです。だから、この小説のあらすじに意味はないのです。単純に数行で書き尽せるあらすじにこの小説の神髄はなく、ストーリーの流れから見るとむしろ寄り道にも見える一人ひとりの人間ドラマが、滔々とした哲学や美学の語りが、そこに描き出される思いや迷いが、普遍的な広がりをもって流れていくのです。もっと早く読んでおけばと思いつつ、でもこの歳だからこそわかる部分も多いのかもなとも思うのは負け惜しみでしょうか。これはいつかまた読み返してみたい小説です。その時はまた、別の訳で。

 とりあえず次は、『罪と罰』でも読んでみようかな?

2015年1月22日木曜日

よくない想像

 これはよくない想像だから、こっそり書きます。ISISが日本人2人を人質に取り、身代金2億ドルを要求している件。

 ネットでもリアルでも色々言われてはいるけれど、細かな陰謀論とか何とかはすべて脇に置いておいて、自分が今一番心配なのはこれを機にナショナリズム、全体主義的な機運が異常に高まったりしないかなということなのです。一番心配なのは人質の方の命ではないのかという意見にはごめんなさい。だからこっそり書くのです。

 人質が解放された場合でも最悪の結果になった場合でも、これを機に日本でもアメリカの「テロとの戦い」に巻き込まれたという認識はある程度出てくることと思う。それでも無事に人質が解放されさえすれば、せいぜい「今後こういったテロとの戦いに備えるためにも集団的自衛権の法的な保証が必要だ」という論調が強まるくらいだろう。もしかしたらこうした国民が直接巻き込まれた有事の際に自衛隊を海外に派遣させるための法整備を、なんて話も出てくるかもしれない。それはそれで慎重に考えるべきことであるけれど、そこまでならまだ怖くない。いや、怖いは怖いけど、まだ最悪の結果には至らないと思う。

 でも仮に最悪の結果になったら?その先の事態として、仮に日本国内でテロが起こったりしたら?その場合考えられる一番ひどい状況は、これまで日本のお家芸であった自己責任論やその他様々な他人様言論も言える雰囲気でなくなってくること。「亡くなった人を悪く言うなんて許せない」「テロを否定しないとは非国民だ」みたいな変な同調圧力が高まってきやしないかなと、それを密かに心配しているのです。そのようになってくると、まさに戦時中の日本のようになってしまう。こうなると一気に改憲だの国防軍だの、そういう話になっていくんじゃないかと、それを心配しているのです。

 Twitterで平野啓一郎氏が以下のようにつぶやいていました

 スポーツなどで国際的に活躍すると、「同じ日本人」として思いっきり共感するのに、紛争地帯で拘束されたりすると、いきなり「自己責任」と言って突き放してしまう冷たさは何なのか。

 2004年の香田さん処刑事件の際にも出ていた自己責任論。確かに冷たいようにも思えるけど、これはある種の自己防御システム、免疫のようなものなのかもしれないなと今思うのです。この「失敗した日本人」に対する冷たさは、ある意味その失敗にさらに追加のベットをしないような安全装置的な働きがあるのではないかと感じています。戦時中、少なくとも公の場ではまさに思想も言論も一つの方向に統制された状態で、無惨な戦争に身を投じたこの日本。その当時の極端な全体主義への反動から、今逆にそこに向かわないために敢えて冷たく「自己責任」と切り捨てることで距離を置いているのではないかと。今日たまたまお話をしたお年寄りの方(戦争体験者)の方もことさらに(特にビジネスで向かった人の方)を「自分で勝手に行って捕まったんだからなぁ…」と自己責任論を支持していた辺り、やはり全体主義への反動という一面はあるのでないかと思うのです。

 だから怖いのは「自己責任」とさえ言えない空気が生まれることなのです。仮に人質の2人に最悪の事態が起きた時、彼らに対して「自己責任だから仕方ない」と言える空気が残っているかどうか。香田さんの時は、良くも悪くもその余裕はまだありました。けど、今はどうだろう?ネットの発達で不寛容さが目立つようになった昨今。自己責任論の冷たさと裏腹に、日本には一度同調圧力が高まってくるとどうにもそこから抜けだせない怖さもあります。この自己責任論の冷たさが、セーフティネットにならない空気が生まれないといいと思うのですが…。

 とはいえまずは何よりも、人質のお2人が無事に帰国できることを祈っております。

2015年1月19日月曜日

インフルエンザ・パンデミック

 先週から、我が家でインフルエンザが猛威をふるっています。先週の日曜11日の夜に上の子が発熱して以来、妻も下の子も次々とインフルにかかっていきました。簡単に時系列をまとめると以下のような感じです。

11日(日) 上の子発熱。
13日(火) 上の子病院へ。インフル確定。
14日(水) 妻発熱、インフル確定。下の子微熱。
17日(土) 上の子治癒認定。下の子インフル確定。
19日(月) 上の子登校。下の子微熱。

 途中から妻もやられてしまったので、我が家は自分以外見事に全滅。15日から17日までは自分以外誰ひとり外出することができない状況にまで追い込まれました。おかげで先週は自分もまともに仕事ができたのは一日だけというありさま。ひどいものです。妻子はちゃんとインフルエンザの予防接種を受けてはいたのですが、今年流行っている香港A型は予防接種の効果が薄いタイプらしいですね。逆に予防接種を受けていない自分には(今のところ)うつってないんだからわからんものです。まぁ多分、自分はこの香港A型には過去にかかっていて免疫を持っているのでしょう。ひたすら病弱な子供時代でしたが、たくさん病気しておくのもたまにはいいこともあるものです(?)。

 今回ちとしくじったなと 思ってるのが下の子への対処。実は下の子、先週水曜からなんか37度台の微熱があったのですが、それ以上上がることもなかったからインフルではないかなと油断していたのです。でも上の子が完治の診断書をもらいに行く土曜になってもまだ微熱が続いているので一緒に診察してもらったら、見事にインフルA型判定。どうやら予防接種を受けている場合には、インフルエンザでもときたまこのように高熱にならずに微熱がダラダラ続くパターンがあるようなのです。もう発熱後大分日数が経っているのでタミフルももう効果的な時期ではなく…。ちょっと失敗しました。高熱にならずとも、周りにインフルが蔓延している際は微熱でもインフルを疑うべし。そうでないと結局治りが遅くなってしまいます。今朝も下の子は37度台の微熱。はたして完治はいつの日か。見てる分には元気なんですけどね…。

 そして今日から通学解禁の上の子、朝は学校に行きたくないと泣きじゃくっておりました。ちょうど三連休の途中から発熱し、期せずして九連休となっていた上の子。まるで冬休みが二回あったようなものです。そりゃ学校行きたくなくもなりますわな…。「おとうさんとおうちがいい!」と必死で言ってくれるのは嬉しいのですが、なかなかそうもいかないのです。ちょっと後ろ髪引かれる思いで泣きじゃくる上の子を送り出したとのことです。

2015年1月9日金曜日

仏『シャルリー・エブド』紙襲撃に思う表現の自由とその限界、リスク、責任

 新年早々痛ましく、また考えることの多い事件が起きた。フランスの風刺漫画が売りの週刊新聞、『シャルリー・エブド』編集部がイスラームの3人組に襲撃され、警官含め12人が射殺された事件。以前から度々イスラームを過激に風刺する漫画を載せていた同紙に対し、侮辱行為だと憤慨した犯人が計画的に襲撃を行ったという。現時点ではまだ確定情報ではないが、イスラームの過激派組織とのつながりも指摘されており、一連の欧米とイスラーム過激派組織の闘いの文脈の中で起きた、完全な民間人が被害者となった悲痛な事件。

 まずは犠牲者となった方々に哀悼の意を表し、いかなる理由があれ文字通り致命的な暴力という手段に打って出る行為自体に同意することはまったくないということを明言した上で、それでもこの事件については色々と思うところがやはりある。ここに至るまでの社会背景は、それこそ歴史的なものから911以後の欧米とイスラームの対立、フランス国内におけるイスラーム系移民の扱い等々複雑なものがたくさん絡んでいるが、ここでは話を単純化して、ある一点に絞って考えてみたい。

 この事件で自分が考えるのは、「表現の自由はどこまで許されるのか。許されない領域があるとしたら、その線引きはどこになるのか」ということ。今回は表現者がムハンマドを笑い物にするような漫画を風刺として送り出し、それを受け手がイスラームの聖人に対する侮辱と取ったことが直接の原因となった。犠牲者が出た非常に痛ましい事件ではあるが、これを「表現の自由に対する暴挙」と考えるのか、それとも「行き過ぎた表現の自由」と考えるのか。

 奇しくも2年前、今回襲撃を受けたのと同じシャルリー・エブド紙がやはりムハンマドの風刺画を載せてイスラームの反感を買った時、当時のフランスのエロー首相は「表現の自由は支持するが、限界はある」と指摘したという。その限界はどこなのか。

 誰しも自分が大切に思っているものを侮辱されたら、され続けたら怒る。それはわかる。だから表現の自由といってもそれは対象を明らかに侮蔑するようなものであってはならないという指摘も一理あるとは思う。けれど、果たして世界中の誰も不快にならないような表現など果たして可能であろうか?何よりも、表現が不快であるかどうかは送り手の問題でもあると同時に受け手の問題でもある。仮に送り手に侮蔑の意図がなかったとしても、受け手がそう取れば不快な表現となってしまう。メディアが発達し、価値観が多様化した現在、すべての受け手に不快を感じさせないようにと気を使い始めたら、最終的には沈黙するしかなくなる。

 では表現の自由の名の下に、我々は何を発信してもいいのだろうか?誰を、何を侮蔑しても、傷つけても?最近話題のヘイトスピーチや、現役の国の元首をパロディにした映画なども、限界なく表現の自由で保護されるべきものなのだろうか?

 一つの線引きとして、攻撃的、侮蔑的な意図をもって対象を表現することはできないとすることもできる。あるいは、表現の自由といってもその対象に対しては最低限の敬意を払うべきだと言うこともできる。でもその線引きは実に恣意的だ。その「攻撃的、侮蔑的であるか?」「対象に敬意が払われているか?」を判断するのは誰なのか?送り手なのか、受け手なのか、それともそのどちらでもない第三者なのか?先に指摘した通り、送り手にその気がなくとも受け手が「侮蔑だ」とすることもある。また、ヘイトスピーチに対する規制の話題でも、受け手の他に規制する側(権力者)がある意思をもって運用された場合、過剰に表現の自由が侵されるかもしれないという危惧が指摘されている。送り手が攻撃・侮蔑の意図はないと宣言すれば表現の自由の名の下に無罪とするのか?この例でも、先日は自分の女性器を3Dプリンタで表現したアーティストが逮捕された。猥褻罪。アーティスト自身は「猥褻な意図ではない」と宣言している。それでも彼女は逮捕された。処罰、規制の運用がこのケースをもっと極端にしたような形で行われたらどうなるか?主観でしか判断できない線引きは、いくらでも恣意的な運用ができる。これでは誰もが納得する線引きは難しい。この規制が行き過ぎると、実質的に表現の自由は失われ、非常に安全性の高い表現しか残らなくなる。最終的には伊藤計劃の『ハーモニー』でミァハが語る台詞が現実味を帯びる日がくるのかもしれない。

 昔の人の想像力が、昔の文学や絵画が、わたしはとってもうらやましいんだ。誰かを傷つける可能性を、常に秘めていたから。誰かを悲しませて、誰かに嫌悪を催させることができたから。

 表現の自由の限界はどこまでかという話にはここで結論は出せない。けれど一点、いくら表現の自由といっても表現はその名の下にすべてが無罪でありノーリスクであるわけではないということは忘れてはいけない。法律を犯すような表現、極論すれば殺人をアートだと称することは明らかに自由の範囲を超えるし、仮に攻撃的・侮蔑的な表現が自由だとして保護されるとしても、相手にも逆に怒り、恨む権利はあるし対抗する権利もまたあるということは忘れてはいけない。怒りや恨みによる対抗的な表現もまた自由だからだ。「表現の自由で私はあなたを攻撃するよ。でもあなたは私を攻撃しないでね。これはあくまで表現。表現の自由なんだから」とはならない。

 だから表現者は自分が行う表現に対してリスクを自覚的に覚悟しなければいけない。反論や対抗の可能性を意識しなければいけない。表現に対する責任を負わなければいけない。しかるに今回の件。サウジアラビア等のイスラーム諸国では今でも神の冒涜に対して死刑が求刑され、実行される。イスラームにおいて神の冒涜は極刑に値する罪なのだ。その論理と、特に911以降の欧米諸国とイスラーム過激派の悲惨な戦闘の経緯を鑑みれば、イスラームの神や預言者を冒涜する行為の代償として死を求められるリスクは確かに存在した。そのリスクを請け負った上で、命をかけてまで表現しようという気概が果たしてあったのか。自分もネットで問題となった漫画を見たけれど、あの本当にくだらない1コマ2コマのカットにそこまでの覚悟があったとはとても思えない。画像をここに転載したくもないくらいくだらないあの漫画に、命を落とす価値があるとは、申し訳ないけれど自分にはとても感じられない。

 少し話は逸れるが、表現に対する責任を負うとは言っても、表現の結果生じた事態が、とても責任を負えないレベルに達することもありうる。最近話題になった北朝鮮の現役総書記をパロディにした映画をきっかけにサイバー攻撃の応酬が始まった件等、自分の表現が国家間の関係にまで影響を及ぼした場合、個人の表現者は一体どうやって責任が取れるのか?もし、この件で北朝鮮がミサイルを飛ばして戦争が始まったりしたら?リスクは表現者の手を離れてどこまでも拡大する可能性がある。だからといって自分の手に負える範囲でしか表現をしてはならないと言えば、それもまた表現の自由と可能性を奪うことになるのでそこには慎重にならないといけないが、せめて表現者は自分の表現のリスクに対してはある程度自覚的でいるべきだと思う。すべてを予見することは当然できないだろうけど。

 ただこの事件では、犯行者が12人もの命を奪ったのはあきらかにやりすぎだ。確かにあの漫画もひどいものではあった。正直あのただ対象をバカにするだけで政治的主張も何も感じられないような浅薄な風刺画は、表現の自由といって守るほどのものなのかなと悩んでしまうくらいだ。だが、それにしても命を奪うことはない。今回のような致命的な暴力による表現への弾圧、脅迫はあってはならない。先に「イスラームにおいて神の冒涜は死に値する」と書いたが、実はこれは国家が定めた政治的な決まりであって、教義で定められているものではない。ハンムラビ法典では「目には目を、歯に歯を」と言われるが、これもまたよく言われる「自分がやられたことをやり返すべき」という意味ではないそうだ。あくまでイスラームの教義においては相手を許すことが一番いいとされる。けれどもどうしても許せない場合には「自分がやられたことまではやり返してもいいよ」と、報復のレベルに制限をかけるための法だということだ。ハンムラビ法典は限度のない復讐を明確に規制している。だからせめて、表現による侮辱には表現による侮辱で対抗すべきだった。相手に瑕疵があるとはいえ、命を奪う手段を取るべきではない。

 今回の事件に対する抗議デモの中で、コーランの一節を引いて抗議のメッセージを掲げている写真をTwitterで見かけた。そこにはこう書かれているという。

 互いに殺しあったのはあなたがたであり、(中略)凡そあなたがたの中でこのようなことをする者の報いは,現世における屈辱でなくてなんであろう。また審判の日には,最も重い懲罰に処せられよう。アッラーはあなたがたの行うことを見逃されない。

 事件の後、今度はイスラーム関係の施設が各地で襲撃されているとの報が入ってきている。イスラームも我々も、このコーランの一節を、じっくりと噛みしめる必要があるのではないだろうか。

 このような痛ましい事件が、もうこれ以上起きないことを祈ります。

2014年12月19日金曜日

梅森直之編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』

 ナショナリズムの画期的な研究家として名高いベネディクト・アンダーソン。日本でも右傾化が懸念され、隣国である中国や韓国、北朝鮮の動きも気になる中でナショナリズムとは何かを考えてみたいとずっと思っていた。奇しくもスコットランドやスペイン・カタルーニャ地方の独立騒動もあったこの年、まずはベネディクト・アンダーソン本人の著作の前に、比較的手軽そうな新書から手を出してみようとこの本を手に取った。

 この本の内容は大きく二部に分かれる。前半は2005年4月に国際シンポジウム「グローバリズムと現代アジア」の中で二日間にわたって行われたベネディクト・アンダーソンの講演の収録。そして後半は編著者である梅森直之氏によるアンダーソンを読むに当たっての基本的な考え方の紹介と講演の解題という形になっている。

 自分の勉強も兼ねてこの本の内容をまとめてみようとこの記事を書き始めてみたのだが、これが非常にまとめにくい。これは本の前半に来ているアンダーソンの講演が事前に氏の著作を読んでいることを前提にしているため、予備知識なしで頭から読み進めていくと少々わかりづらい点があるからだ。なのでこの記事は本の内容を書かれている順にまとめていくことはせず、本を読んでここから自分が理解したことをまとめていくような形で進めていくことにする。

 ベネディクト・アンダーソンはナショナリズム、ひいては「国民」「ネーション」という意識はいつどこで、どのようにして生まれ、世界に広がってきたのかを考える。そしてその意識が世界にどのように影響を与え、相互作用してきたのかを注意深く観察していく。「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」とはアンダーソンの有名な言葉だが、果たしてそれはどのような意味なのか。

 今では「国民」や「ネーション」といった概念は一般に普通に受け入れられている。だが法律的には、例えば日本人なら日本国籍を持つものが日本人でいいはずなのに、実際の「国民」の意識の区切りはそうなっていない。例えば日本に帰化した外国人は日本人か?逆に日本で生まれ育ったが外国に帰化した日本人はどうか?仮に日本に帰化した元横綱・武蔵丸を日本人とみなさず、ノーベル賞受賞時には既に日本国籍のない中村修二氏を日本人とみなすようなことがあるのであれば、その国籍以外の要素で区切られる国民、ネーションの意識とは何なのか。この点をまずアンダーソンは探求する。ナショナリズムとは何なのか。

 それはまず、近代の発明(国籍という制度ができたのと同時に発生した概念)であるはずの「日本人」が、あたかも太古の昔に起源を持ち、今日に至るまで面々と続いてきたと主張する(国民の古代性)。次にそれは、実際にはかなりの人が出たり入ったりしているはずの「日本人」の境界を、閉ざされたものであるかのように装う(国民の閉鎖性)。最後にそれは、さまざまな偶然の結果である人間の集合を、共通の運命によって結ばれた共同体に変える(国民の共同性)。-『想像の共同体』より

 この問いへの答えとして、アンダーソンは時間と空間に着目する。どのように人々が時間というものを認識しているのか。宗教的な時間、民俗的な時間、デジタルに刻まれる時間によって、人々の認識がどのように変わるか。また同様に、目に見える景色が、地図に描かれた空間が、人々の認識にどのような影響を与えるか。それがネーションの意識を規定すると。

 時間が何故ネーションの意識を規定するものとなりえるのか。アンダーソンは「2014年12月20日 21時27分」というような日常で用いられる標準的な時間を「均質で空虚な時間」とし、このような標準的で過去から未来に向かって規則正しく流れていく時間の感覚は歴史の中で発明されたものだと言う。本来歴史や文化によって多様であった時間感覚を、世界共通の「均質で空虚な時間」が浸透することにより人々の間に「同時性」の感覚が生まれた。そのことで世界の人々は時間を共有することが可能になった。かねてより人類学の世界は提唱されている、時間の発明だ。標準的な時間を得ることにより、まず人類は「時間を共有するコミュニティ」としてまとまることになる。

 ここから時間を共有した人々の中にさらに「ネーション」という概念が生まれるには、加えて空間が境界によって区切られなければならない。解放された時間による共有から、空間による細分化によりネーションが生まれる。その役割に、ネーションを境界で区切るきっかけ作りに、貢献したのが言葉だった。ネーションの意識の空間的な源泉として、言葉が通じる範囲、つまりコミュニケート可能な範囲が原初のネーションとして意識されたわけだ。

 標準的な時間と言葉によって区切られた原初のネーションの意識を、さらに細分化し強化したのが「出版資本主義」だとアンダーソンは指摘する。出版資本主義はまず商圏の拡大のために方言を統一化した「標準語」を生み出した。日本語で例えれば、東北弁で書かれた新聞を九州の人がすんなり理解するのは難しいので、便宜的に日本全国で通じる文字通り「標準的な」言葉として標準語が生み出された。これにより出版資本主義は新聞や雑誌を「全国に」売り出すことが可能になる。そして人々は新聞や雑誌を読む度に同じ時間と、言葉によって区切られた空間を共有し、集団への帰属意識を高めていった。このようにして「想像の共同体」は生まれる。

 そして時間と空間で区切られた共同体に愛着を与え、ナショナリズムを生み出すきっかけとなったのが植民地で生まれ育った人々、クレオールだという。決して本国と同等の立場になることのないクレオールの本国に対するコンプレックスはそのまま自らが属する共同体への愛着へと裏返され、そこに「国民」「ナショナリズム」という観念が生まれる。後でまた触れるが、その植民地で生まれたネーションへの強い愛着、「国民」という強い意識が、ナショナリズムとなって一連の植民地解放運動の力となった。

 そして一度生まれた「国民」という概念は模倣可能な「モジュール」となり、模倣を通じて世界中に伝播していくことになる。2005年の公演、この本の前半部では、アンダーソンはそのモジュール化されたナショナリズムが初期グローバリズムの中でどのように世界各地で模倣され、広がっていったかについて語っている。

 もう一つ、クレオール発の国民意識を民衆の意識に自発的に芽生えたボトムアップ的なナショナリズムだとすれば、権力側が民衆を自分たちの帝国により強く結び付けようと意図的に国民意識を植え付けるトップダウン的な「公定ナショナリズム」とアンダーソンが呼ぶものが生まれてくる。これは世界、特にヨーロッパ各地でナショナリズムというモジュールが模倣され、伝播し、民衆運動が盛んになる中、それを脅威に感じた権力が民衆をより強く自国に結び付けておくために試みられた。開国から明治国家形成に至るまでの日本のナショナリズムもここに分類されている。黒船来襲以来、外国の脅威を目の当たりにしたこの時期の日本は、他国に飲みこまれないためにも国民の帰属意識、ナショナリズムを強めていく必要があったのは想像に難くない。

 では実際、上記のように生まれたナショナリズムの概念が19世紀末から始まる初期グローバリズムの中でどのように広がっていったか。グローバリゼーションが生まれる要因も含めてアンダーソンは言及する。グローバリゼーションの発生・発展のきっかけとなった出来事は2つ。1つはモールスによる電信の開発、そしてもう1つは世界中をつなぐ輸送、物流の発展だった。

 およそ130年前、瞬時に情報を世界中に伝えることができる電信の誕生によって初めてグローバリゼーションは可能になり、誕生した。電信は1850年代に急速に世界中に広がり、1870年代には海底ケーブルが主要な海洋をすべて横断し、つなぐまでに発展。やがて絵や写真も送れるようになる。この電信により人類史上初めて、情報が瞬時に世界中を駆け巡る時代が到来する。もちろん現在のインターネットほど便利ではないが、それでも情報が一瞬で世界中に届く時代は、もうこの頃に生まれていた。

 そして汽船や鉄道の整備が世界中で進んでいき、1874年に万国郵便連合が設立されると、手紙、書籍、雑誌、新聞などがこれまでにない規模で国境を越えて大量に輸送されるようになる。これによりローカルにいながらにして世界中の情報、写真等にも触れることができるようになっていく。早くて安全な蒸気船の交通網が発達することで世界の物流は効率化され、海を渡る巨大な人の流れも生まれる。これら電信と輸送の発達を背景に出版と商業がつながり情報がグローバル化したこと、これをアンダーソンは「出版資本主義」と呼んでいる。出版資本主義は先の標準語の発明で商圏をまとめ、さらに翻訳によって世界中に情報を運んでいった。この「出版資本主義」が世界中の植民地で起こるナショナリズムをつなぎ、伝え、そしてそれが世界各地で模倣されたのが初期グローバル化の空間だったとアンダーソンは言う。

 19世紀の末、世界各地で同時多発的に白人帝国主義と植民地の戦いが始まる。ホセ・マルティが起こしたキューバ革命、ホセ・リナールのフィリピン革命、南アフリカにおけるイギリスとボーア人の戦い…。発展した電信と輸送は、これらの国々の植民地勢力がお互いに連絡を取り合うことを可能にした。また他の国々は新聞や雑誌等を通じてこれらの植民地解放運動の情勢を知ることとなり、それはあらためて自国の「ネーションとは何か、どうあるべきか」を意識させるきっかけとなった。出版資本主義はネーションの概念を伝えるだけでなく、植民地解放のためにどう戦うかまでもモジュール化し、模倣の助けとなっていた。

 同様の情報伝搬による模倣は19世紀末から20世紀初頭のアナーキズムにおいても起こり、それは世界各国の主導者の暗殺という形で具現化された。アナーキストたちは世界各地の情報をグローバルに見聞きし、模倣し、実行したわけだ。その実行には各地のナショナリストも多く関わった。アナーキストたちは要人の暗殺を世界に対するメッセージとして利用し、それは出版資本主義により世界各地に伝えられ、目論見通りの効果を上げた。

 このように、通信と輸送の発達によって遠い国のナショナリズムやアナーキズムがグローバルに広がっていき、世界中にナショナリズムが強く意識され、芽生え、実行されていく。それが初期グローバル化の時代に起きていたことだった。

では現代はどうだろう。アンダーソン曰く、第二次世界大戦の終結から実に1980年代までナショナリズムはヨーロッパにおいて妖しげな観念に他ならなかった。ヒトラーと様々なナショナリズム、ファシスト政権、日本の軍国主義的帝国主義、それらが引き起こした凄惨な光景を目の当たりしたからこそ、ヨーロッパでナショナリズムは反動的で遅れたもの、研究する価値のないものとみなされていた。しかし1960年代から1970年代にかけて、世界各地で多くの地域が植民地からの独立を勝ち取っていき、75年のポルトガル帝国の崩壊を持って植民地解放の時代が終わる。そしてさらに重要なことに、時期を同じくしてヨーロッパ内部において地域ナショナリズムの萌芽が芽生え始める。スコットランド、ウェールズ、カタルーニヤ、バスク、ブルターニュ、シチリアなど。これら植民地の解放と地域ナショナリズムにより、時代遅れと思われていたナショナリズムは新たな形で勃興していく。

 公演後の質疑応答の中でアンダーソンは今後ナショナリズムによる国家の領土の拡大は考えにくいが、逆にネーションのさらなる分割は充分起こりえると話している。特に脆弱なのはイギリス、ロシア、中国にインド。ヨーロッパではスペインも、と。この講義が行われたのが2005年、本として出版されたのが2007年。その後、世界ではアンダーソンが言及したような事象が多数起きてきている。アラブの春では民衆蜂起によるチュニジア政権崩壊を発端に、ヨルダン、バーレーン、リビア、そしてシリアと次々に飛び火。Facebookを使った情報のやり取りはまさにモジュール化され、模倣されていった。ウクライナではクリミア自治区が騒乱を起こし、スコットランドではイギリスからの独立を問う住民投票が実施された。時期を同じくしてスペイン・カタルーニャ地方でも独立を問う非公式な住民投票が実施されるなど、ここ数年でナショナリズムの動きは活発化しているように思える。隣国中国の尖閣諸島、韓国の竹島での動きももちろんだ。

 これらの動きに対して、この本では予見はしていてもその後どうなるか、どうすべきかという話は出てこない。それはこれから語られるべきこと、あるいは我々が自分で考えていくべきことなのだと思う。

 自分はベネディクト・アンダーソンをレヴィ=ストロースや、あるいはガルシア・マルケスの正当な後継者だと感じた。本人も『想像の共同体』は正真正銘の構造主義的テクストだと思っていたと語っている(ただし、実際にはデリダやフーコーの影響が強く感じられるポスト構造主義的、ポストモダン的なテクストとして受容されたとも語っている。執筆当時アンダーソンはデリダもフーコーも読んだことはなかったそうだけど)。そしてこの『想像の共同体』は意外なことにあのジョージ・ソロスによって旧ソ連内のすべての言語に翻訳されるべき100冊の重要な本の1つに選ばれている。意外な人物が出てくるものだ。

 最後に、ここ数年また活発化してきているナショナリズムの今後を占うために、『想像の共同体』の時点では考慮されていなかったがその後アンダーソンが重視するようになったというネーションとグローバリズムの関係について触れておきたい。ネーションの比較研究のためにはネーションをあたかも境界づけられた1つの単位であるかのように扱い、比較の物差しをはっきりさせないといけないとアンダーソンは言う。けれども実際のネーションは絶え間ない動きのうちにあり、変化し、他のユニットと相互作用していく。だからこそナショナリズムをグローバルな文脈で比較し、論じるためにはナショナリズムがそこで生じ、変化し、相互作用する重力場について見なくてはいけない。今後の世界情勢を見ていく時、この視点は重要だと感じる。ナショナリズムの動きが世界で活発になってきている現在、アンダーソンのような視点でその動きを解明していく思考は大切ではないだろうか。自分としては今後是非、『想像の共同体』を始めとする氏の著作も読んでいきたい。